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Das Wunder von Lengede - A Light In Dark Places


 レンゲデの奇跡 (2003年11月9日、10日放映)


2004年2月4日、GOLDENE KAMERA最優秀ドイツTV映画賞を受賞しました!

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1963年10月24日、ドイツのブラウンシュヴァイク市の西南に位置するレンゲデの炭坑で、湖水流入事故が起こり129名が生き埋めになった。 最後の11人は14日後に、地下63mの洞窟から奇跡的に救出された。 汚い水を飲みながら7℃の寒さと暗闇の中で14日間生き延びたこと自体奇跡であるが、希望を捨てずに仲間を全員見つけるまで作業を続けた関係者たち。まさに、ドイツ版「プロジェクトX」に相当すると思う。

 当時の事故の全貌と救出作業の様子をSAT.1が「トンネル」に続き映画化した大作ドラマ”Das Wunder von Lengede"(ダス・ヴンダー・フォン・レンゲデ)(マンフレット・マイヤー作)が、2003年11月9日と10日に放映された。 テレビ放映に先駆けて、映画関係者、出演者、当時関わった人たちが招待され試写会が行われた。 インタビューでは、女性たちは「地下での様子を男性たちは語ろうとしないので、見ていて感動した。しかし、男性たちにとっては、いやな思いをぶり返す羽目になってしまったと思う。それほどまでに、今も精神的ダメージを負っている。」と語った。 また、当時生き埋めになった人は言葉を詰まらせながら、「地下では、人のことなど気使う余裕がなく、自分が生きのびることで精一杯で、この映画とはぜんぜん違う様子だった。」と語っている。

 当時、生き埋めになった一人、ベルンハルト・ヴォルタース氏(当時28歳で、2003年1月11日に死去)は、生前、テレビやラジオに出演したり、雑誌、新聞のインタビューに応えていて、彼の証言と救出作業に関わった人たちの証言、当時の報道資料を元に作られたドキュメンタリー”Das Drama von Lengede.”(ダス・ドラマ・フォン・レンゲデ)も、2003年10月31日にWDRテレビで放映されている。 こちらは実録で、地下での様子の証言のほとんどはヴォルタース氏が綴った本(1988年出版やインタビューの内容からまとめられている。

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”Das Wunder von Lengede”


監督:カスパー・ハイデルバッハ

脚本:ベネディクト・レースカウ

出演:ハイノ・フェルヒ(フランツ・ヴォルベルト)、ハイケ・マカッチ(レナーテ・レーガー)、ヤン・ヨゼフ・リーファース(ブルーノ・レーガー)、ナディア・ウール(ヘルガ・ヴォルベルト)、アーミン・ローデ(ユルゲン・グラヴォフスキー)、ベンヤミン・ザドラー(アレックス)、ギュンター・マリア・ハルマー(採鉱場長ディーツ)、トーマス・ハインツェ(TVレポーター)、マルティン・ブラムバッハ、クリスティアン・カールマン、クラウス・J・ベァレント、カタリーナ・ヴァッカーナーゲル、ユルゲン・ショルナーゲル他


1963年10月23日、パーティーにてブルーノとレナーテ、フランツとヘルガ。


※この映画の中で使われた曲は、当時ドイツで流行っていたヒット曲で、37曲が収録されたサントラCDも発売されている。また、若い炭鉱夫が恋人に、「仕事から戻ったら、コンサートに行こう」と渡したのは、ブラウンシュヴァイクで行われる「ラットルズ」のコンサート・チケットで、背後のポスターも、ラットルズであった。

10月24日、作業場に向かう炭坑労働者たち。外国人労働者もたくさんいる。


※当時の採鉱場は、一日8時間、週48時間の交代制で、日夜稼動していた。

着替えて、数人ずつ狭いエレベーターに乗って、グループごとに、それぞれの炭層へ向かう。 フランツはブルーノと2人の若者たちと作業を始める。

他の連中がなかなか来ない。若者の一人を偵察にやると、「流水だ!」と、叫びながら戻ってきた。もう一人の若者は呆然として足がすくんでいる。 ここを塞がれたら、逃げ道はない。 とっさの判断で、今は閉鎖されている、いつ陥没するかもしれない古い洞窟”Alten Mann”(アルテン・マン)へ向かうことにした。

あちこちの炭層は塞がれ、逃げて来た他の炭層の労働者たちと合流する。 洞窟に避難しないと、溺れ死んでしまう。 ブルーノは他の人のために橋渡しをしている最中に流れてきた大木に挟まれ足を骨折する。


※実際は、水に押し出されて上昇し、洞窟に避難する途中怪我をした人は助けている余裕はなく、溺れるか非難するか、皆、自力で洞窟に向かうしかなかったという。

怪我したブルーノを連れて、洞窟へ向かう。 それぞれ名前を言って、仲間を確認する。 非難することができたのは、15名であった。

ブルーノが持っていた懐中時計に頼って、交代の時間なら、仲間に聞こえるかもしれないと、声を合わせて叫ぶが、応答はない。その日のうちに、仲間一人が、水に潜って消えてしまう。救助されるまでの間に、二人が落ちてきた炭鉱の下敷きになって死亡する。

町を通り抜けて炭鉱場に向かう数台の消防車を追いかけて集まってきた親族たち。 「労働者たちが生き埋めになった」とだけ説明され、中には入れてもらえない。

129名のうち、79名はすぐに救出された。採鉱場のディーツは、家で食事中に、電話で事故の知らせを聞いて駆けつける。

翌日、非難した7名が川で救出されたが、遺体も次々に運び込まれてきた。

関係者たちは、遺体でもいいから仲間を全員、見つけ出したいというが、ディーツは、生存者など、もういるはずがないと、早々と捜索を打ち切るように言って、採鉱場の再稼動のことしか頭にない。

TVレポーターや新聞記者が駆けつけ、レンゲデの事故は全世界に報道される。 大衆の期待とマスコミの報道によって捜索は続けられた。 事故から、8日後、3名が奇跡的に救出される。 通常、7℃の寒さの中で、食物もなく、地下の暗闇の中で、生き延びる事など不可能であると、11月2日に正式に捜索が打ち切られ、集団埋葬の日取りが発表される。 しかし、昔、古い洞窟”Alten Mann”で働いていた老人の一言をきっかけに、その夜、最後の穿孔を承諾してもらう。

翌日、引き上げた関係者も戻ってきて、地下の”Alten Mann"へ向けて穿岩機を作動させる。 「生きていれば、応答があるはずだ。応答がなければ、諦めがつく」と、穿孔責任者のグラヴォフスキーは、大衆の見守る中、何度も鉄骨を叩いて合図するが応答はない。諦めた大衆は肩を落として集団埋葬のために教会へ向かう。 実はその時、地下では、フランツが持っていたジャックナイフで叩いて応答していたのだが、地上まで音が届かなかったのだ。 引き上げる鉄鋼にすがり付いて叫ぶ仲間。 これで、希望は失った。

暫くすると、静まり返った洞窟に、鉄の筒がストンと降りてきた。 これなら合図がよく聞こえる。 地下で必死に筒を叩く音を、聞き取ったグラヴォフスキーは叫んだ。「合図だ!合図が聞こえる!生存者がいるぞ!」 作業員たちは、歓声を上げて喜んだ。 生存者を確認するために、懐中電灯とメモ帳を下に送って名前を書いてもらう。グラヴォフスキーは、現場にいたフランツの息子にそのメモを渡して、教会に知らせに走るように言う。 葬式の最中、牧師は生存者の名前を読み上げる。 現場へ向かう親族たちの希望をよそに、ディーツは、「充分な設備を整え救出用の穴を空ける一ヶ月はかかる。余計な希望など持たせるべきではなかったんだ。」と憤慨する。

地下と地上とのコンタクトはマイクを通じて行われた。 フランツはヘルガと、ブルーノはレナーテと話ができた。 身内のいない労働者もいるが、看護婦が声をかけて、勇気付ける。 怪我をしたブルーノの様態はだんだん悪くなり、レナーテに懐中時計を形見に渡して欲しいとフランツに頼んで息を引き取る。 地下では、皆、そう簡単に救出用の穴を開けられないことも悟っていた。 穿岩機で49m掘った所で作業は止まっていた。 ここから先は、風圧を使ったコンプレッサー(圧搾機)が必要なのだが、ドイツにはそれがなかった。 

11月6日、現場で、マイクを通じて、ブルーノの葬儀が行われる。 事故の前日、ブルーノに、「レンゲデを出たい」と言って、喧嘩したことを話すレナーテ。 「でも、彼と一緒なら、どこにいてもよかったの。」と、ヘルガと思いでの写真を見ながら、初めての出会いの時のことを回想する。

11月7日、事故のことを聞きつけたベルギーの炭鉱から、コンプレッサーが運ばれて来た。 そして、洞窟に穴を貫く時が来た。 振動で洞窟が埋まってしまうかもしれない...しかし、他に方法はない。 各自に保護用のゴーグルが渡され、コンプレッサーが作動する。暫くして、とうとう、救出用の穴があけられた。 ダールブッシュ・ボンベ(1955年にゲルゼンキルヒェンのダールブッシュ採抗場で狭い孔を通して救護するために作られた爆弾型の運搬具)に、一人ずつ入って上に引き上げられる。

わずかな光にも目がくらむ。 最後の11人は、14日ぶりに生還したのであった。


※写真の後ろに見えるのが、ダールブッシュ・ボンベ。

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ラットルズ - ”Rattles”


ラットルズは、1961年にアッヒム・ライヒェル氏とヘルベルト・ヒルデブラント氏によって結成された。

1年後、彼らは、ドイツ・ハンブルクの「スター・クラブ」のオープンの時に、ライブを行っている。 1962年「スタークラブ」でのコンテスト「ベスト・ビートバンド」に選ばれる。 1963年ローリングストーンズやエブリ・ブラザース、リトル・リチャード等のイギリスツアーに同行。 1963年のクリスマスの前、リバプールの「Cavern Club」で アニマルズとともにコンサートを行う。 Melody Maker誌は、「クラブ始まって以来、ビートルズ以来の成功を収めた。ラットルズは、唯一イギリスのファンクラブを持つドイツのバンド」と書いている。 1965年、「La La La]がドイツヒットパレードのトップ20に入る。 さらに「Stoppin' In Lasvegas」、1966 年「Come On And Sing」と「Love Of My Life」、1967年「Cauliflower」がヒットチャートに。 1966年ビートルズの前座としてドイツツアーを行い、「Hurra die Rattles kommen」がドイツで始めてのビートフィルムとして劇場公開される。 1969年、The Witch」が世界的にヒット。 1972年、ヨーロッパツアー。 1988年、「Hot Wheels」のヒットで、テレビ出演、ドイツツアー開始。 1991年、ローレライフェスティバルに出演。

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